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殺されるという希望 [シードン/映画論]

 映画「うなぎ」(97 松竹 今村昌平・監督作品)を観て。

 忘れられないのは殺される妻(寺田千穂)の目であった。この顔、この目——今村監督はこのシーンに何度注文をつけたことだろう。映画史に残る表情だと思う。冒頭近くのこの場面、この視線で、観客を最後まで引っ張る支点をしっかり打ち込んだ。

 いくつもの「問」が発せられている。これも監督一流の手法と言えようか。

 妻の浮気を告発する手紙は誰の手によるものなのか? それが彼の人生を狂わせた。刑務所仲間の高崎は「そんな手紙はなかったのさ」とせせら笑う。筆で書いてあった。上品な家庭の年配の夫人といった文体だった。ご近所の奥さんという設定であろうか。しかしそれは不問に付されている。浮気は事実かもしれないと主人公が夜釣りをひとり切り上げて帰宅するところからドラマは始まる。 刑務所仲間はなぜ主人公・山下(役所広司)に付きまとうのか? この高崎(柄本明)が実にいい。彼がいなければこの映画は全くつまらないものになっていたかも知れない。このトリックスター的脇役が絶妙。胡椒のようにこの悪役の投入でピリッとした。

 睡眠薬自殺の女・服部(清水美砂)はなぜ自殺しようとしたのか? 今ひとつしっくりこない。清水のそれまでの人生が間欠的に挿入されるが、これはどうだろう? 狂った母・市原悦子の演技も空回り。面白くない。リアリティに乏しい。

 主人公・山下はなぜウナギにかくも惹かれるのか? 夜になるとウナギに語りかける毎日である。ウナギの餌を捕っているときに睡眠薬自殺の服部を見つけてしまった。ウナギの持つ歴史性が河魚捕りが趣味の船大工によって語られる。赤道付近で生まれた稚魚が2000kmを旅して日本の川に戻ってくるという話しである。いや、それ以前から山下はウナギに夢中だったのだ。なにしろ刑務所で飼っていたウナギなのだから。イヌやネコならともかく魚は人格化しにくい。ましてやウナギである。それは男性性器を思わせないでもないから、山下はインポテンツだったのかも知れない。それは触れられていない。

 逸(はぐ)れ者同士がなぜ惹かれていくのか? 女が主導権を握っているのはいつものことである。「セックスがちょっとうまい以外に何の取り柄もない女がどうしてイイんだ」と服部の元・愛人であり会社の共同経営者でもあった堂島(田口トモロウ)が叫ぶシーンがあった。——そう。セックスが問題なのだ。この映画では。そういえばのっけからセックスシーンであった。男のテクニックにあられもない妻を覗き見て、怒りが込み上げてきた山下は出刃包丁を手に取った。
 「あなたみたいな人初めてだから」と服部が山下に語る場面があった。服部がケガしたときの山下の優しさについてなのだが、ここは実は「セックス抜きでしかも優しい」という風に聞き取らねばならないのだろう。

 結局、性をどう乗り越えるかが問われていたのだ。男も女もそれを容易に乗り越えられない。性に翻弄されボロボロになった二人が、漸くそれを越えたレベルで結びついて行く―—それを高校生のように「心と心の触れ合い」と言ってしまうことには抵抗があるが、ウナギの2000kmに相当する苦労がそれぞれあったことを思えば、「運命的な結びつき」とは言えるだろう。

 「もう一度生まれたらどう生きたいか?」——ありえないのに誰もが一度は考えたことのあるテーマがこの映画の主題である。
 もう一度生まれ変わることはできはしない。長い苦難の旅の末に傷付き疲れた男と女が、偶然知り合い、この人とならやり直せるかもしれない、やってみようと思える時が訪れるなら、それは価値のあることだ。

 あの視線が見せていたのは欲望に囚われた人間である。満たされなかった渇きである。あるいはこの欲望と共に滅ぼしてくれという叫びである。いや、欲望はあなたを示していたのに遂に届かなかったという哀しさ―—いくらことばを重ねても説明できない視線……。それは欲望そのものといっても言いかも知れない。「性欲」という意味ではない。「欲望とは他者の欲望である」(ラカン)という意味での欲望である。

 だから妻の浮気を告発した手紙は妻自身が書いたと解するのが精神分析学的であり文学的なのだろう。
 遂に得たのだ。得たいと思っていたものを。男によって自分の腹が抉られるその瞬間を待っていたのだ。その時自分を睨みつける必死の形相をこそ得たかった。それが《男》を得ることだと《女》は直覚していたのだ。

 だが、この理屈にだれが納得するというのか。今村氏はどうだろう。もうこの世の人ではないから確かめようがない。(今村昌平氏は06.5逝去)

 むかし「セックスを越えたところで付き合っていこうね」と私に囁いた人がいた。近づいたからこそそんなセリフが出て来ることにもなったのだろうが、私はその後彼女からのアプローチを無視しつづけた。そうやってすれ違っていくことの連続である。人生は。

 すれ違い、すれ違いして行く時、正面からぶつかりたくなるというのは分かる気がする。私も何度かムダと知りつつそうしたことがあった。命まで賭けはしなかったが。それが2000kmのサバイバルレースの後だったらどうなっていただろうか。
 
 あの表情で睨みつけられたら男はきっと抉り殺したくなるに違いない。殺されることにしか希望が見出せない関係というのもあるのだろう。女は確信犯だった。
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